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夫が愛人を家に連れてきたので、私は妻を辞めました ~離婚後に私が幸せになるほど、元夫はすべてを失っていく~
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Author: 常陸之介寛浩

第1話 結婚七周年の夜、夫は愛人を連れて帰ってきた

last update publish date: 2026-10-02 20:37:38

第1話 結婚七周年の夜、夫は愛人を連れて帰ってきた

午後八時を過ぎたところで、真壁――結婚してからは神崎姓になった沙耶は、ダイニングテーブルに並べた料理をもう一度見渡した。

牛肉の赤ワイン煮は火を止めてから随分経っている。サラダはまだ大丈夫だろうが、オーブンから出したばかりなら香ばしかったはずのパンは、とっくに冷えていた。

中央には、小さな白い花を飾っている。

七年前、結婚式のブーケに使った花と同じ種類だった。

豪華にしたかったわけではない。夫の遼一は派手な記念日を好まないし、社長になってからは夜の予定が急に変わることも珍しくなかった。それでも今日は結婚七周年で、朝、家を出ていく夫に「今夜はなるべく早く帰ってきてね」と伝えたとき、彼はネクタイを締めながら確かに頷いていた。

「分かってる。九時には帰るよ」

その言葉を信じていた。

だから七時には食事を整え、八時になっても帰らない夫を待ち、八時半になれば料理を温め直そうと思っていた。

けれど九時を過ぎても、玄関が開く気配はない。

沙耶はスマートフォンを手に取ったものの、メッセージを送るのをやめた。社長になって二年。予定が押している最中に何度も連絡すれば、遼一はあからさまに嫌な顔をするようになったからだ。

以前はそんな人ではなかった。

まだ神崎ライフスタイルの営業部にいた頃は、遅くなるなら必ず連絡をくれたし、帰宅してから「待たせたな」とコンビニのプリンを差し出すこともあった。

七年も一緒にいれば、人は変わる。

そんな当たり前のことを、沙耶は何度自分に言い聞かせただろう。

変わることと、冷たくなることは同じではないはずなのに。

九時三十六分。

ようやく玄関の電子錠が解除される音がした。

沙耶は反射的に立ち上がった。

「遼一、おかえりなさい。遅かったから、何かあったのかと――」

廊下へ向かいかけた足が止まる。

玄関から聞こえたのは、夫一人の足音ではなかった。

女性の声がした。

「あ、ごめんなさい。靴、ここでいいですか?」

若い女の声だった。

仕事関係の人だろうか。

そう思ったのはほんの一瞬で、沙耶の中に小さな違和感が生まれた。

午後十時前の自宅へ、夫が女性を連れてくる。取引先なら普通は事前に連絡する。しかも今日は結婚記念日である。

それでも沙耶は、まだ最悪の想像をしなかった。

しないようにした、と言ったほうが正しいのかもしれない。

遼一がリビングへ入ってきた。

濃紺のスーツに、朝とは違って少し緩んだネクタイ。疲れているようには見えたが、酒に酔っている様子はない。

その後ろに、一人の女性が立っていた。

二十代後半くらいだろう。

柔らかく巻いた長い髪に、細身のワンピース。化粧は華やかだが品があり、高価そうなバッグを持っている。

そして沙耶が真っ先に目を奪われたのは、女性の顔でも服でもなかった。

足元だった。

淡い灰色のスリッパ。

去年、沙耶が遼一と一緒に選んだ夫婦用のスリッパだった。遼一のものが濃い灰色、沙耶のものが淡い灰色で、女性は何のためらいもなく沙耶のほうを履いている。

たったそれだけのことなのに、胸の奥へ冷たいものが流れ込んだ。

「遼一。その方は?」

沙耶は自分でも驚くほど普通の声で尋ねた。

遼一はすぐに答えなかった。

ジャケットを脱ぐこともせず、沙耶を見ている。

女性も気まずそうに立ったままだったが、帰ろうとはしない。

その沈黙だけで、沙耶は何かを悟り始めていた。

「会社の方なら、先に言ってくれればよかったのに。今日は何も用意していないから……といっても、夕食なら余っているけれど」

「沙耶」

遼一が低い声で遮った。

いつもの呼び方だった。

ただ、その声に夫婦の親しさはなかった。

「話がある」

沙耶はテーブルへ視線を向けた。

七年目の結婚記念日に作った料理と、小さな花瓶。

時計の針は九時四十分を示していた。

「そう。だったら座ったら? 食事は冷めちゃったけれど、温め直せるから」

「食事はいい」

「もう食べてきたの?」

「ああ」

その答えに、沙耶は思わず笑いそうになった。

朝、自分から「夜は空けておく」と言った人が、結婚記念日の夕食を外で済ませてきた。

しかも女性を連れて。

怒ればよかったのかもしれない。

「今日が何の日か覚えている?」と責めることもできた。

けれど今さら記念日の話を口にしたら、自分だけが七年間にしがみついているような気がして、沙耶には言えなかった。

「分かったわ」

沙耶は椅子を引いた。

「座りましょう」

遼一が向かい側へ座り、女性はその隣に腰を下ろした。

沙耶の隣ではなく、遼一の隣。

わざわざ確認するまでもない配置だった。

それでも沙耶は、まだ名前すら知らない女性に目を向けた。

「申し遅れました。神崎沙耶です」

女性の顔がわずかにこわばった。

「……葉山莉奈です。神崎ライフスタイルの広報部にいます」

「ああ」

沙耶は思い出した。

名前だけなら聞いたことがある。

昨年、中途採用で入った社員のはずだ。遼一が一度、「広報に面白い人材が入った」と話していた。

仕事のできる女性なのだと思っていた。

遼一が家で女性社員を褒めることなど少なかったから、珍しく覚えていた。

「葉山さんね。夫からお名前は聞いたことがあります」

莉奈が遼一を見る。

遼一は何も言わなかった。

その目線のやり取りがあまりにも親密で、沙耶の中に残っていた逃げ道が一つ塞がった。

仕事の相談ではない。

偶然送ってきただけでもない。

この女は、自分が遼一の妻だと知っている。

知ったうえでここへ来ている。

沙耶は指先を組んだ。

「それで、話って?」

遼一は一度、莉奈のほうを見た。

その仕草に、沙耶は妙な懐かしさを覚えた。

大事な商談の前、遼一は昔からこうして一拍置いた。

沙耶は何度もその横で資料を確認し、「大丈夫よ」と背中を押してきた。

まさか自分との結婚を終わらせる話にまで、その癖を見ることになるとは思わなかった。

「沙耶、今から言うことは、言い訳するつもりはない」

「そう」

「俺が悪いのは分かってる」

その言葉を聞いて、沙耶の胃のあたりが固くなった。

人は、本当に悪いと思っているときほど「悪いのは分かっている」と先回りして言うものなのだろうか。それとも、この先に続く言葉への非難を少しでも減らしたいだけなのだろうか。

沙耶は返事をせず、夫の顔を見ていた。

遼一は昔より痩せた。

社長になってから睡眠時間も減ったし、会食も増えた。胃が弱いから朝は温かいものを食べさせるようにしていたが、最近はそれすら「時間がない」と断られる日が多くなった。

それでも沙耶は毎朝用意した。

食べるかどうかではなく、必要になったときに困らないように。

いつからそれが愛情ではなく、ただの日課になったのだろう。

そして遼一にとっては、いつから「用意されていて当然」のものになったのだろう。

「沙耶」

遼一が再び名前を呼んだ。

「莉奈とは、付き合ってる」

あまりに直接的な言葉だった。

沙耶は聞き間違えたのかと思った。

「付き合っているって……どういう意味?」

問い返した瞬間、自分でも馬鹿なことを聞いたと思った。

意味など一つしかない。

それでも、人は受け入れたくない事実を聞いたとき、意味の分かっている言葉ほど聞き返してしまうらしい。

遼一は顔をしかめた。

「言葉通りだよ」

「いつから?」

「沙耶、まず俺の話を最後まで――」

「いつからなの?」

声を荒らげたつもりはなかった。

それでも遼一は口を閉じた。

莉奈が膝の上でバッグを握り直す。

沙耶は彼女を責める気にはまだなれなかった。怒りの向かう先を選ぶ余裕すらなかったのかもしれない。

遼一は短く息を吐いた。

「半年くらい前からだ」

半年。

その数字は妙に具体的だった。

沙耶の頭の中で、過ぎた半年が勝手にめくられていく。

四月。新商品の発表会直前、遼一が持ち帰った企画書を午前二時まで一緒に直した。

五月。大口取引先との会食で、相手方社長の妻が好きな花まで調べて手配した。

六月。遼一の母・美佐江が検査入院したとき、仕事で動けない遼一に代わって毎日病院へ通った。

七月。取引先への謝罪文の文面を相談され、遼一が感情的に書いた文章を一から整え直した。

八月。彼の誕生日には、忙しいと言うから自宅で小さく祝った。

その間ずっと、この人には別の女性がいた。

沙耶は無意識に自分の左手へ触れた。

薬指には結婚指輪がある。

朝から何度も見ていたはずなのに、急に他人の持ち物のように感じられた。

「半年……」

口にしてみても、現実味は薄かった。

莉奈が小さく口を開いた。

「あの、沙耶さん……」

「今は話しかけないでもらえますか」

自分でも驚くほど穏やかな声だった。

莉奈は唇を閉じた。

沙耶は彼女を睨まなかった。

睨んだら何かが壊れてしまいそうだったし、壊れたあとに自分が何を言うのか分からなかった。

遼一が眉を寄せる。

「莉奈だけが悪いわけじゃない。俺から――」

「分かっているわ。あなたの不倫を、私が葉山さん一人のせいにするとでも思った?」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味?」

「だから、感情的にならずに話したいんだ」

その言葉に、沙耶の胸の中で何かが小さく軋んだ。

感情的にならずに。

夫が愛人を連れて結婚記念日の夜に帰宅し、不倫を告白している。

それでも妻には冷静さを求めるらしい。

沙耶は遼一の顔を見つめた。

「私は今、怒鳴っている?」

「そうじゃないけど」

「物を投げた?」

「してない」

「葉山さんを責め立てた?」

「……してない」

「だったら、これ以上どう冷静になればいいのか、私には分からないわ」

遼一は黙った。

言い返す言葉が見つからないときの顔を、沙耶は知っている。

かつてはその表情を見れば助け舟を出していた。

今夜は出さなかった。

しばらくして遼一が言った。

「俺だって、こんな形で傷つけたいわけじゃなかった」

沙耶は初めて、はっきりと彼の言葉に傷ついた。

「こんな形じゃなければ、よかったの?」

「そういう意味じゃない」

「だったら何? もっと上手に隠して、私が気づかないうちに終わらせれば、それなら傷つけなかったことになるの?」

「沙耶、言葉尻を取るなよ」

苛立ちが遼一の声に混じった。

懐かしい、と沙耶は思った。

最近の遼一は都合の悪い話になると、こういう言い方をする。

話をしているはずなのに、いつの間にか沙耶の「言い方」が問題になる。

沙耶が黙るまで。

そして黙れば、夫婦喧嘩は終わったことになる。

それを七年間の中で何度繰り返したのだろう。

ただ、今夜は黙って終わらせることのできる話ではなかった。

「遼一」

「何だ」

「今日が何の日か覚えてる?」

遼一の表情が止まった。

その一瞬で答えは分かった。

覚えていなかったのだ。

あるいは、朝までは覚えていたのに、その程度のものとして忘れた。

隣で莉奈が遼一を見る。

「今日……何かあったの?」

彼女も知らなかったらしい。

そこだけは少し意外だった。

沙耶はテーブルの料理へ目を落とした。

「結婚記念日。七年目よ」

遼一の顔に、わずかな動揺が走った。

「……そうだったな」

その一言を聞いた瞬間、沙耶の中から何かが静かに抜け落ちた。

謝ってほしかったわけではない。

忘れたことを責めたいわけでもなかった。

ただ、七年間が夫にとって「そうだったな」で済むものになったという事実だけが、やけに鮮明だった。

莉奈が立ち上がりかける。

「私、今日は帰ったほうが……」

「いや」

遼一が止めた。

沙耶はゆっくり顔を上げた。

「帰らせないの?」

「今日話すって決めてたから」

「二人で?」

「ああ」

その答えに、沙耶はようやく理解した。

これは告白ではない。

相談でもない。

遼一の中では、すでに結論が出ている。

妻に不倫を打ち明けて謝りたいから莉奈を連れてきたのではなく、二人で決めたことを沙耶に伝えに来たのだ。

ならば、この先に続く言葉も想像できた。

想像できるのに、聞きたくなかった。

耳を塞ぐことも、席を立つこともできた。

それでも沙耶は動かなかった。

七年間を終わらせる言葉なら、せめて逃げずに聞こうと思った。

遼一は両手をテーブルの上で組み、沙耶を正面から見た。

少し前まで、この手に毎朝コーヒーを渡していた。

風邪を引けば薬を持たせ、仕事で失敗すれば夜中まで話を聞いた。

苦しいときは一緒に苦しんできたつもりだった。

それが遼一にとって同じだったのかは、もう分からない。

「沙耶」

遼一は言った。

「離婚してほしい」

沙耶は瞬きもできなかった。

遼一は一度だけ言葉を切ったが、やがて隣の莉奈を見てから、もう一度沙耶へ視線を戻した。

「俺は、莉奈と生きていきたい」

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